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テーマ別周遊ルート

もうひとつの天下分け目の戦
~ 織田VS毛利の攻防を巡る ~

戦国時代末期、西日本最大の戦国大名ともいわれる毛利氏、天下統一を図ろうとする織田信長・豊臣(羽柴)秀吉。両勢力の間の中国地方東部の各地では激しい戦いが繰り広げられました。
戦いの舞台となった山城はなぜそこにつくられたのでしょうか?そこには地形を巧みに生かした戦略がありました。また、舗装道路や鉄道がなかった時代、戦国武将たちはどんな道を歩いたのでしょうか?
ここでは、山城や街道、峠道などについて、地形などの当時の自然環境からそれがつくられた理由や戦略に迫ります。当時の人々が体験したこと、考えたこと、見ていた景色がありありと想像され、あなたの想像がよりリアルになるはずです。さあ、戦いの跡をめぐる旅に出発!
モデルルート
ルートマップ
1、鳥取城(鳥取市)/「兵糧攻め」の舞台

鳥取城が築かれた標高263 mの久松山(きゅうしょうざん)は、鳥取市のシンボル的な山で、鳥取平野の東の端にそびえ立つ岩山です。戦国時代、険しい山登りの末、頂上の本丸跡に立つと鳥取平野を一望でき、日本海に沿って鳥取砂丘や遠くは中国地方最高峰の大山まで望むことができます。視点を転じて、本丸跡から東方向僅か1.4km先に見える本陣山(標高251 m)には、兵糧攻めの際に羽柴秀吉が約100日間全軍指揮にあたった陣城「太閤ヶ平(たいこうがなる)」があります。至近距離から秀吉に見張られている毛利方吉川経家の気分に浸ることができるでしょう。
また、久松山山麓には、江戸時代鳥取藩32万石の居城の遺構が残ります。各時代に整備された石垣群は圧巻です。球型に積み上げられた「巻石垣」など、鳥取城でしか見ることができない珍しい石垣もあります。二ノ丸背後には、石垣の石材を調達した石切場跡があります。
<城攻め情報>
鳥取城入口~久松山山頂 徒歩1時間
久松山山頂~太閤ヶ平 徒歩1時間
↓関連情報へリンク↓
冊子「国指定史跡・日本百名城 鳥取城跡」ダウンロード
https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1432278469689/index.html
車で約30分
2、防己尾(つづらお)城(鳥取市)/
半島の地形を活かした難攻不落の城

防己尾城跡は歩きやすい遊歩道が整備されており、歩道沿いに曲輪や堀などの遺構を多数見ることができます。本丸跡や三ノ丸跡の広場では桜を楽しむこともできます。
車で約15分
3、大崎城(鳥取市)/日本海に面した山城

大崎城跡へは、地元の人によって整備された登山道があり、気持ちの良い登山を楽しむことができます。登山道沿いに連なるように並ぶ曲輪や、土塁、竪堀を見ることができます。土塁で囲まれた主郭からの眺めは格別で、東西の日本海沿岸と南の水尻池を望むことができます。水尻池は湾が砂丘によって閉じた潟湖(ラグーン)です。もしかしたら、城があった当時は港としての機能を持っていたのかもしれません。
車で約20分
4、鹿野城・鹿野城下町(鳥取市)/
山と海へ通じる「亀井さん」のお城

さて、鷲峯山の麓には鹿野城下町が広がっています。今も武家屋敷のあった殿町、商人の上町、下町、鍛冶町、大工町などの町割りや、町を巡る水路など今もよく残っており、京風の格子構えを備えた町屋は、往時の面影をよく留めています。散策しながら城下町の地形をよく見ると、山に向かって緩やかな坂になっており、城下町の外に比べてやや高い土地であることが分かります。ここはかつて川が運んだ砂や石ころがたまってできた「台地」です。台地は、一般に洪水や地震に対する安全度が比較的高い上、台地の上の面は平らなので住居を建てるのに適しています。交通の要衝だったこの台地の上に古くから町が栄えていたのを、亀井茲矩が城下町としてさらに整備しました。
↓関連情報へリンク↓
城下町ガイド:ぷらっとしかのガイドの会
https://shikano-dream.jp/publics/index/27/
車で約60分
5、蒲生峠/但馬-因幡国境の道

蒲生峠の周辺は泥岩(泥がたまって固まった岩)などの堆積岩が分布しています。泥岩は比較的軟らかく、侵食によって削られやすく、水を含んで地滑りを起こしやすいという特徴があります。こういった泥岩の性質によって、低く、なだらかな地形になったのでしょう。蒲生峠の南北に連なる山々は主に硬い火山岩(溶岩など)からなるため、侵食に強く、険しい地形になっているのです。
蒲生峠は、織田方の軍が但馬から因幡へ攻め入ったルートの一つです。歴史が下り、明治時代になると山陰道が一級国道に選定され、国によって整備されました。人はもとより人力車、荷馬車などの往来で賑わいました。戦後、自動車交通の発達に伴って改修が行われ、昭和53(1978)年には蒲生トンネルが完成し、峠道の役割は終わりました。平成8年に文化庁の「歴史の道百選」に選定されています。
車で約30分
6、小代城山城(香美町)/小代一揆の拠点

小代城山城跡はふれあい歴史公園として整備されていて、頂上付近まで車で行くことができます。駐車場からすぐに南砦、綺麗に整備された歩道から主郭へ行くことができます。主郭跡に櫓の展望台が設けられており、矢田川と久須部川の合流地点に開けた町を見渡すことができます。北・西・東砦へは案内板が設置されており、迷うことなく散策できるようになっています。
ところで、なぜ秀吉軍は小代一揆をそこまで徹底的に打ち倒す必要があったのでしょうか。それは、「氷ノ山越えルート」確保の目的があったと考えられています。小代城山城の南方、兵庫県と鳥取県の県境付近は氷ノ山(1,510m)をはじめとした険しい山がそびえます。兵庫県養父市北部を東西に流れる八木川に沿った谷から氷ノ山を越えて鳥取県若桜町に入るルートは、古くは但馬と因幡を結ぶ内陸の幹線道路であり、但馬・播磨からの進軍や後方支援のために重要でした。鳥取城攻めに先立ち、小代~養父市の抵抗勢力である一揆勢を完全平定しておかなければならなかったのです。
↓関連情報へリンク↓
ふれあい歴史公園
https://www.kami-tourism.com/spot/detail_10055.html
車で約60分
7、出石城・有子山城(豊岡市)/守護大名山名氏の滅亡

有子山城は山名氏の後、秀吉の家臣らが城主を務めましたが、慶長9(1604)年に当時の城主小出氏によって山麓に出石城が築かれ、有子山城は廃城になりました。江戸時代を通じて出石城は「但馬の居城」として存続し、明治維新を迎えました。現在の但馬の中心地といえば豊岡盆地ですが、かつては円山川がたびたび氾濫を起こしていました。そのため、明治以前の但馬の中心は水害が少ない出石にあったのです。出石城下町は往時の面影をよく残していて、四季を通じて観光客で賑わっています。
※有子山城跡への道は、山城最高レベルの本格的な登山(片道1時間)で、急勾配の山道や岩場を登るところがあります。体調を整え、しっかりとした登山の装備で臨んでください。
↓関連情報へリンク↓
日本の小さな城下町 出石(出石まちづくり公社)
https://daytrip-izushi.jp/about/